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学校ブログ

2020.05.31

【特別寄稿】「新型コロナと子どもたちの心」   田中哲先生(児童精神科医)

東京YMCAオルタナティブ研究所顧問をしてくださっている、児童精神科医の田中哲先生から特別寄稿をいただきました。キリスト教学校教育同盟カウンセリング研究会で、現場を支える教職員向けに書いていただいた文章ですが、東京YMCA高等学院のみなさんへ、転載してくださいとのことでした。

 

「新型コロナと子どもたちの心」

あまりにも長い休みから、子どもたちが帰ってくる。私たちはどのようにして子どもたちを迎えたら良いのか。

  • 新型コロナというストレス状況

新型コロナが引き起こしたパンデミック状況は、子どもたちにとって経験も予想もしなかったような事態だが、それは確実に心の中の歪み(ストレス)を引き起こす要因として作用している。大人たちにとってそれは、医療・経済・外交・産業など途轍もない大きな領域に及ぶ多様な問題の複合体だった。端的に言えば生活そのものの問題として、私たちが生きることを脅かしたのである。では子どもたちにとってはどのような意味をもつものだったのだろう。この間子どもたちが見せてくれた反応は、もっと純粋に『心をおびやかすもの』としての新型コロナ・パンデミックの脅威だったと思われる。それは次のように要約できるのではないかと筆者は考える。

まず第一にそれは『日常の剥奪』だった。いつも何気なくできていたことのすべてが何らかの影響を受け、形を変えてしまったのである。子どもたちにとっての『日常』とは、それを通して生きていることを確かめるための具体的な手がかりである。動かない日常に支えられていることは、自分が確かに存在し、明日が今日と同じように存在し、いつもの心許せる人々に囲まれていることを意味している。したがって、日常が確かさ(恒常性)を失うとき、子どもたちは自分がいることの確かさも、生きることの見通しの確かさも、自分を支える人々の確かさも見失うことになる。

自然災害に際しての子どもたちの心のケアとして、日常性を回復することから手をつける意味はここにある。しかし、新型コロナという災害の特徴は、日常を構成するものは何一つ破壊されていないのに、日常性だけが失われるという、子どもたちにとっては非常に意味の分かりにくい状況だったと考えられる。

今回のパンデミックのもう一つの特徴は、『格闘する相手が見えない闘い』だったということではないだろうか。それは先ほど述べた日常を構成するものは何一つ破壊されていないことにも現れているし、ほとんどの子どもたちは身近に新型コロナのために病床についたり亡くなった人を経験していない。手洗い・マスクで防御を固めはするものの、防ごうとする相手は不可視なままなのだ。街を歩いていて、誰が感染者なのかも見えない。

戦う相手が見えない脅威というのは、ホラー映画の常套手段でもあるくらい、無条件の不安に人の心を晒す。この不安は時間をかけて人の心を蝕んでいく。

そして、新型コロナパンデミックの最後の特徴は、『終息の見通しが立たないこと』だろう。日常の喪失も、見えない闘いも、期限が明瞭であれば、耐えることもまだいくぶんかはたやすい。しかし今回のパンデミックは、いつ終焉を迎えるのか、誰にも明言できない状況にある。つまり、子どもたちにとって、いつもならあてになるはずの大人も含め、誰もこのことに答えてくれないということを意味している。人類が果たしてこのウィルスに勝利できるのかすらも、じつはよく判っていない。この終わりの見えない不安を、子どもたちは大人以上に深く、肌で感じ取っている。

 

  • 子どもたちのストレス反応

こうした特徴を持つ今回のパンデミック状況は、ここに挙げたような強い不安を介して、子どもたちの心のなかのストレス(歪み・緊張)となっていると考えるべきなのだ。

ただ、子どもの場合のストレス反応の表出は、大人の場合といくつかの点で異なっていることが知られている。近年の自然災害の場合などでも、避難所で生活を始めたばかりの子どもたちの様子はむしろ明るく、非日常を楽しんでいるようにさえ見えていたことを、私たちは多くの場合経験する。

こうした様子は、子どもたちのインノセントの現れと理解されることが多いが、じつはそこには誤解がある。それは子どもたちの非日常への適応戦略であり、時には大人たちを落胆させないための方策なのだ。直接の大被害を免れた多くの子どもたちがこの方略をとる。今回も、生産的なことをしようにもできない状況を、「ラッキー」とばかりに満喫して、ゲーム三昧の日を送っているように見えた子どもたちも少なくないはずだ。

しかし深い不安によるストレス反応は、もう少し遅れてやって来る。数週間を経たところで、子どもたちの反応は明らかな変化を見せる。経験的に例外は少ない。不安のストレス反応と呼べるものが見え始めるのだ。その特徴の一つは何らかの身体反応が現れることだ。例としては頭痛・腹痛・不眠・夜尿・食欲不振・体温調節障害・疲労などで、あるいはもっと漠然とした不調感であることもある。過剰な適応への疲れと理解することももちろん可能だが、もっと根底には覆いようのない不安があることを忘れてはならない。

もう一つの特徴は行動上の変化で、自分や家族が感染することの不安といった直接の反応よりむしろ、何となく落ち着きがない、いつもよりわがままになる、いつもはしないような甘え方をする、少しのことで混乱したり怒り出したりする、何となく不機嫌な状態が続くといった、一見したところストレスとの関係がつかみにくい行動変化である。こうした変化を一括してしまうことには無理があるかも知れないが、あえてこれらに共通する基盤を探れば、いくぶん幼児化した反応系なのだと考えると納得がいく。

もちろん年齢による差はあって、不安を不安として自覚できる年齢に達すると、いつもとはちがう自分を自覚し、これをはね返そうとして何でもなかったように振る舞おうとしたり、逆になげやりな態度をとったりすることも見られるにちがいない。

今回の場合、わが国では第一波の被害が、最悪の予想よりいくぶん軽く済んだため、子どもたちはこの段階で日常への回帰のタイミングを迎えた。つまりこの状態で学校へともどってくることになるのである。

 

  • 学校では何を共有できるのか

相互の関わりが途絶していた子どもたちは、さまざまなストレス反応のうちにありながら、学校で再会することになる。この時に学校が提供できるものとは何だろうか。

ここまでの展開で明らかなとおり、もっとも重要な要素は『日常の回復』である。学校が取り戻してあげなければならないもの、子どもたちが期待してやって来るものはまず、遅れてしまった学力であるより前に、見えなくなっていたいつもの学校がそこにあり、いつもの先生や友だちがそこにいることであるにちがいない。何気ない日常は、私たちが想像する以上に、子どもたちにとっては大きな意味があると考えて良い。

その上で、『見えない敵との闘い』をどのように戦っていくかの知恵を授けなくてはならない。どのようにしてもコロナウィルスは見えない。この見えない敵に対する不安を払拭するためには、何が起きているのかを正確に知ることが必要なのだ。コロナウィルスに関する知見は、様々な形で世の中にあふれているし、子どもたちも耐えずその情報に晒されている。その中には有用なものも多いが、無用な不安を煽るだけのもの、科学的に誤ったものも少なくないのが現状で、大人たちでさえその見分けがついていないのが現状なのだ。子どもたちにどのような情報が届いているのかも含め、私たちが情報をよく知っていること、正確で有用な情報を子どもたちと共有していくことは、今もっとも必要な『学び』なのではないかと考えるのである。

その上で、私たちがこの状況をどうやって切り抜けていくかを示してあげることが必要なのではないだろうか。確かにこの点では、まだ未知数で確かなことを語れない部分が多すぎるかもしれない。しかしこれから起こりうる第二波・第三波のこと、異なるステージにある諸外国で起きていることなど、未来を予測するために私たちが現時点で知っておくべきこと、子どもたちと共有しておいた方が良いことは沢山あって、それはあまりなされていないのが現状なのではないだろうか。将来に向けて、現在のこの『非日常』を単に『新しい日常』と呼び換えるだけでは、子どもたちの不安は解消しない。

 

  • 新型コロナ後の世界

おそらくこうした子どもたちとの共有作業の中で浮かび上がってくるのは、今回のパンデミックが去った後の世界の有り様である。少なくとも半年以上後に、かりに強力なワクチンが開発されたとしても、世界はコロナウィルスと共存していくことを強いられる。ことによるとその時点で、また新たな感染症の脅威に晒されていることになるのかもしれない。今回の感染拡大のしかたを見ていると、それが単なる最悪の妄想ではないことは明らかなのだ。

そうなると、現在は緊急時の拡大予防策として受け入れられているsocial distancingやマスクの常用だけでなく、会合や会食の制限、大イベントの制限などは新しい生活の常識として組み入れられていく可能性がある。産業構造も生活様式も社会の在り方そのものも、新型コロナ流行の前と同じものになるとはとうてい考えられないのである。

それがどのような世界なのかを予測することはまだ難しい、ただ、今から考えておくべきことはある。それは、こうした予防策がもたらす生活変化のことごとくが、人と人が直接に関わり合うことを難しくする方向に作用している点である。

今はまだ、直接につながりあう関係は、人々の記憶に深く残っているので、制約が解ければ懐かしさを感じながら再び繋がりあうことはそれほど困難ではない。しかしこの状況が半年・1年と続けば、人と直接のつながりを求める気持ちも、もはや同じではないだろう。そうなれば、人のコミュニケーション行動や、コミュニティの在り方そのものが変化を被ることになるにちがいない。

大局的に見ればその変化は、われわれがすでにその流れの中にいる時代に伴う変化を、単に加速させるだけのことなのかもしれない。しかし現在までのその変化は、子どもの心の発達という観点からは、決して望ましい変化ではなかった。子どもたちの心の成長はコミュニティの中でしか保証してあげられないからである。子どもたちは独りで育つことはできない。

コミュニケーションをとることを回避する社会では、コミュニケーション行動を学べない子どもが育つ。それを「コミュニケーション障害」として子どもの問題に帰着させることには根本的な誤りがあると私は考える。このままではコミュニケーション行動を学べない子どもはますます増加するだろう。

では私たちは新しい時代の人とのつながり方を、どのようにしたら良いものとして先取りしていけるのか、それこそが子どもたちのために今考えるべきことなのではないだろうか。

 

(本稿の前半部は、山梨県のホームページに寄稿した『パンデミックと子どものストレス反応』を下敷きに大幅に加筆したものです。)  田中 哲