私たち東京YMCAは、「青年」という言葉を生み出し、「たくましい子どもたち、家族の強い絆、支え合う地域社会」を築くための運動を展開する公益団体です。

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会員が語る「私とYMCA」

"幸せなら手をたたこう" ~名曲誕生のストーリー

早稲田大学名誉教授/東京YMCAアドバイザー
 木村利人さん
ワークキャンプ参加者/アドバイザー

誰もが一度は口ずさんだことのある歌「幸せなら手をたたこう」は、木村利人さんが1959年に、フィリピンYMCAのワークキャンプでの体験をもとに作詞したものです。
戦禍の傷や憎しみが残るフィリピンで、現地の青年たちと平和を誓った体験から生まれたこの歌のストーリーを、今あらためて木村さんに聞きました。


1959年5月、パンガシナン県、ダグパン市ルカオ小学校校庭で、YMCAワークキャンパーたちと。後列左端が木村さん。

【フィリピン ワークキャンプでの衝撃】
終戦から14年たった1959年。早稲田大学の大学院生だった私は、「早稲田奉仕園」の学生サークルに所属していた関係から、フィリピンYMCAの農村復興ワークキャンプに参加。マニラ北方のダグパン市を訪れました。日本では見たこともないような青い空と美しい海。しかしそこは、かつて日本軍が上陸し、日米とフィリピンの3国が戦った激戦地。日本人である私は快く迎え入れられず、手を差し伸べても払いのけられるような雰囲気でした。離れて見るだけで近づいてこない人。刺すような眼差し。私はショックを受けました。

 私は知らなかったんです。戦時中私たちは、日本軍は欧米の植民地支配下にあるアジアの人たちを助けに行っていると教えられましたから、まさか日本軍がフィリピンで虐殺や暴行など残虐行為をした加害者だったとは思っていませんでした。
 私自身は疎開児童であり、東京大空襲で自宅を失い、食べ物もなく、親戚も原爆で死にました。出兵やシベリア抑留で死んだ親戚も大勢いたので、被害者としての日本人という意識ばかりが頭にありました。

 私は村の中を案内してもらいました。
 どこに行っても「日本人は子どもも女性も関係なく、無抵抗な市民を虫けらのように殺戮した」という話を聞かされました。スパイと思われる人を集めて燃やしたという教会の跡地や、弾丸跡なども見ました。14年経っても人々の痛みや悲しみは和らぐこともなく、日本への恨みや憎しみが渦巻いていました。

【ラルフ君との出会いと誓い】
 そんな中で私は、市内のルカオ小学校を宿舎にして約1ヶ月間、現地の青年たちと一緒にワークキャンプに参加。寝食を共にしながら、農村援助のための土木作業をしました。トイレのなかった地域での簡易トイレ作り。校庭の整地。バスケットコート作りなど。日中は共に汗を流して働き、朝夕の礼拝では聖書を読んで祈り、話し合う。そんなキャンプ生活を送りました。

 しばらく経った頃、ラルフ君という青年が私に言いました。「君が戦争でフィリピンの人を殺したわけじゃない。だからぼくたちが、日本人が来たら殺してやりたい程に思っていたのは間違いだった」と。そして手をとって、「今日は君が新しい世代の日本人として、再び武器をとって戦わないように誓う出発点にしよう」と言って、戦争が人を狂わせること、戦争の残酷さを確認し、聖書を読み、お互いに涙を流しながら祈りました。その時に読んだ聖書が「詩篇」47章の「すべての民よ、手をたたこう」です。この体験が後の作詞につながりました。
 ラルフ君はご家族全員を戦争で亡くした青年でした。にもかかわらず「神の名によって赦す」「私たちはキリストにあって友だちだ」と言ってくれたのです。そのタガログ語の「タヨ アイ マカイビガン カイ クリスト」の言葉が、今も鮮やかに耳に残っています。



2013年1月、ルカオ小学校を再訪した時の歓迎会。垂れ幕には「ようこそ、木村ご夫妻」と記載。

【村人たちに受け入れられて】
 この日を境に、村人たちの私を見る目が変わりました。「この人は平和な未来を目指すためにここにいる」と認めてくれて、そして"態度に示して"親切にしてくれました。家に招かれる、誕生日や結婚式に招かれる。さらに地元のラジオ番組にも、戦後初めての日本人として招かれました。
 ラジオで私は、加害者である日本人として改めて、再び武器をとって戦わないこと、日本には再軍備禁止、戦争放棄の新しい憲法ができたことを伝えました。ラジオパーソナリティーのメグ・ロレンゾさんは非常に喜んでくれて、これは全ルソン島で放送され、その後各地のロータリークラブにも招かれて私は、平和憲法の話をしました。

【平和の願いは歌にのって】
 帰国後私は、ラルフ君と読んだ「手をたたこう」の聖句と、"態度に示して"歓迎してくれたフィリピンの人たちへの感謝をこめて作詞し、現地のルカオ小学校で子どもたちが歌っていたスペイン民謡のメロディーにのせて歌にしました。
当初は、早稲田奉仕園の活動などで子どもたちと歌っていたのですが、口コミで広がり、坂本九ちゃんが歌ったことからヒットし、さらに1964年の東京オリンピックでも歌われ、海外にも広まっていきました。



ルカオ小学校で子どもたちと歌う木村さん(2013年)

【いのちを守る学問「バイオエシックス」】
私はその後1970年から2年間、戦争の只中にあったベトナムで教鞭をとりました。枯葉剤による被害もでており、まさに遺伝子戦争の危機を目の当たりにしました。
自己規制のメカニズムを欠いた科学技術と国家権力とが結合すると悲惨な暴走が起こる。それを正しくコントロールする学問の必要を感じ、社会・経済・政治・文化・宗教・哲学といった枠を越えて、いのちを守る新しい学問「バイオエシックス(生命倫理学)」を発案。その後アメリカの研究者と共にこの問題を研究するなど、私はフィリピンの人たちとの誓いを胸に約40年、いのちの尊厳に基づいた平和を目指して尽力してきました。

【戦争・平和・いのちを考える】
ところで今、憲法を改正しようとする動きがありますが、憲法をつくったときの国民の情念、二度と戦争はしないと誓ったその固い決意を忘れてはならないと思います。 私が中学生のときにならった文部省の『あたらしい憲法の話』には、「こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか」とはっきり書いてありました。この憲法は占領軍が作ったといわれますが、そうではない。前文にある「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」や97条の「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」などに表れているように、多くの人の平和への願いからできたものです。

【YMCAに期待すること】
 YMCAは現在も各地で国際ワークキャンプを開催しています。テロが相次ぎ、世界に不穏な空気が流れる今、YMCAがさらに多くの青年たちを平和運動へと導き、国家間の相互理解を助ける力を発揮できるようにと願っています。
 かつてのYMCA指導者ジョン・アール・モットは、数百万人の青年たちを世界平和のために結集していった功績から、ノーベル平和賞を受賞しました。ぜひモットを学び続け、「戦争・平和・いのち」を考え、これからも"平和をつくる者"としてのYMCA運動を展開していってほしいと思っています。



木村利人さん(きむらりひと)さん プロフィール

早稲田大学名誉教授/東京YMCAアドバイザー。1934年生。早稲田大学法学部、大学院修了後タイ、ベトナム、スイス、アメリカで研究員・教授を務める。1987年早稲田大学で日本初のバイオエシックス(生命倫理)講座を開設。恵泉女学園大学学長(06〜12)、日本生命倫理学会代表理事・会長などを歴任。