私たち東京YMCAは、「青年」という言葉を生み出し、「たくましい子どもたち、家族の強い絆、支え合う地域社会」を築くための運動を展開する公益団体です。

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東京YMCAの歴史Serving People and Community since 1880

東京YMCAの創立

1880年

東京YMCAが誕生したのは1880年(明治13年)。新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争からわずか10数年後の、明治維新と言われる時代でした。 創立に携わったのは主に旧幕府陣営の武士階級だった20代の若者たちです。彼らは新しい国家を作ろうと、宣教師のもとで海外の知識や英語を学び、キリスト教に触れ、ある者は牧師となって教会を作り、またある者は国会議員となって国政を目指しました。そしてその一方で彼らは、日本の青少年の育成を願ってYMCAを創立したのです。

銀座に新肴町教会をつくった小崎弘道、会津藩出身の牧師で明治学院創立者となる井深梶之助、米国留学中にYMCAを知った貴族院議員の神田乃武(かんだないぶ)、後に衆議院議長を務めた片岡健吉など。彼らは新しい国家形成のために働きながら1880年5月8日、銀座の京橋教会に集まり、東京YMCAを創りました。

創立直後の東京YMCAは、庶民を対象に演説会を開催。1880年10月の上野公園での野外大説教会では、7千人の聴衆を集める勢いでした。また『六合(りくごう)雑誌』を創刊して、諸外国の思想や学問を紹介しました。

「青年」という言葉を生み出したYMCA

YMCAは、Young Men's Christian Associationの略語で、日本語では「キリスト教青年会」です。当時「青年」という言葉はなく、「Young Men」を和訳するために、創立者の一人である小崎弘道が、漢詩「唐詩選」にある「青雲のごとく志を高くもつ」をヒントに造り出しました。その後「青年」は、日本だけでなく、中国でも使われる言葉になりました。

「神田の青年会館」の建設

1894年
神田の青年会館

1889年には、北米YMCAから海外派遣主事としてJ.T.スウィフトが着任。スタッフの育成に務めたほか、自身が受け取るべき遺産と募金によって1894年、神田美土代町に東京YMCAの会館を建設しました。設計は、鹿鳴館やニコライ堂を設計したイギリス人のジョサイアー・コンドル。赤レンガの壮麗な会館には1000人を収容する大講堂があり、アインシュタインや内村鑑三、板垣退助など、数々の思想家が講演を行いました。

1902年には、日本初の国際大会「万国学生基督教青年会大会」がこの会館で開催されました。

英語教育の開始

1890年

1890年には「青年夜学校(後の東京YMCA英語専門学校)」を開設。仕事帰りの多くの青年たちが英語を学びました。

また文部省からの要請を受けて、北米YMCAから200人以上の英語教師を日本に紹介。英語教授法の研究も盛んに行われ、第4代校長の石川林四郎はコンサイス辞典をまとめたほか発音記号を日本に紹介するなど、英語教育の発展に貢献しました。

また1891年には、勤労青年のため人事相談事業(後のハローワーク)を開始。1892年には学生のための寄宿舎も建設しました。

財団法人格取得

1903年

1903年、財政上も安定してきた東京YMCAは、財団法人格を取得します。初代理事長は三好退蔵(最高裁長官)、第2代理事長は世良田亮(海軍少将)、第3代理事長は安藤太郎(外交官)、第4代理事長は片岡健吉(衆議院議長)、第5代理事長は江原素六(衆議院議員、麻布中学校創立者)。日本社会の指導者たちが、東京YMCAのために尽力しました。

社会教育事業の拡大

1908年~

第2代総主事・山本邦之助は、1907年~8年に欧米YMCAを視察します。当時のアメリカYMCAは、精神・知性・身体と社交性の向上を目的とし、体育や教育など幅広い事業に子どもから成人まで多様な層が参加していました。YMCA主事を養成するための学校も作られ、大規模で活発な事業が展開されていたのです。

社会教育事業の拡大東京YMCA職業紹介所に宮内省から200円が助成されました

山本総主事は帰国後、多数の事業を始めました。

  • 職業紹介所の設立(1921年)・・まだ行政による職業紹介所がなかった時代、1891年から行っていた東京YMCAの人事相談事業が、公的な職業紹介所として認められました。
  • 市民自由大学の開校(1922年)・・創立以来開催していた公開講座は、大正デモクラシーの波にのり、「市民自由大学」として発展しました。
  • 学生寄宿舎の拡大・・1892年から始めていた学生寄宿舎を、都内10カ所に拡大。
  • 体育事業の開始(1917年)・・室内総合体育館を建設し、庶民が楽しめる体育事業を展開しました。

バスケットボール、バレーボールを紹介

1909年
バスケットボール、バレーボールを紹介

バスケットボールは1891年にアメリカのYMCA主事が、雪の季節にも青少年が楽しめるスポーツとして考案したものです。またバレーボールは1895年に、バスケットボールより幅広い年齢層が楽しめるスポーツとして創られました。

日本では1909年、北米に留学していた東京YMCA主事の大森兵蔵がこれを持ち帰り、日本に普及しました。

健康教育の開始 ~日本初の室内総合体育館の建築

1917年
室内温水プール

1917年秋、日本で初めての室内温水プールを備えた総合体育館を建設。それまでの古代泳法に代わって、クロールなど近代泳法を日本に普及しました。冬場にも泳げる場所として、オリンピック水泳選手など数々の選手たちがYMCAで練習を行いました。

また「兵式体操」で十分と考えられていた時代に、デンマーク体操やボウリング、ハンドボールなど、日本に馴染みのなかったスポーツも広めました。

YMCA健康教育の歴史はこちら

関東大震災

1923年

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により会館を失います。全国20カ所のYMCAと700の教会からの支援を受けて東京YMCAは、救護部を設置し、炊き出しなどを行ないます。また焼け残った体育館を避難所として提供しました。

関東大震災

教育キャンプの開始

1922年
教育キャンプ

1920年代、当時の「少年部」では、精神・知性・身体のバランスのとれた「全人教育」を行なう場として、教育キャンプの研究が進められました。この「少年部」で委員をしていた小林弥太郎氏は、「少年たちのためにキャンプ場を作りたい」と考えて1923年、山中湖畔に自ら土地を購入し、モーターボートや桟橋などの整った常設キャンプ場をつくり、東京YMCAに寄付しました(=写真)。また小林はその後1932年に野尻キャンプ場も寄付しました。

1931年には「第1回山中家族キャンプ」が開催され、1932年には男子中学生の長期教育キャンプ「野尻学荘」がスタート。いずれも現在にいたるまで継続されています。

第2代会館の建設 ~小集団活動、救済事業、職業教育の展開

1929年

多くの募金に支えられ、1929年12月に第2代会館が竣工しました。この会館には大講堂に代わって小集会室がたくさん作られ、会員たちは、「英語社交会」「国際通信クラブ」「合唱会」「青年実業家クラブ」などたくさんのサークルを作って活動しました。

第2代会館

「社会部」では、職業紹介のほかに人事相談や法律相談を行ない、「食費恵与」「農林省払下白米廉売」「汽車賃恵与」「宿泊紹介」などさまざまな救済事業を実施しました。

また1935年には、外国人旅行客の増加と1940年の東京オリンピックにそなえて、「国際ホテル学校」(現:東京YMCA国際ホテル専門学校)を開校しました。戦争のためオリンピックは開催されませんでしたが、現在に至るまで多くの人材をホテル業界に輩出しています。

戦中戦後

1940年~1950年

戦時中は活動も制限され、1944年に山中湖センターには陸軍通信隊が駐屯したほか、戦後は神田会館がGHQに接収され、3年間ほど千代田区富士見町の仮会館に移ることとなりました。 一方でYMCAは国際団体であることから、齊藤惣一総主事は厚生省の「引揚援護庁長官」に任命され、625万人の在外抑留者引き揚げに貢献しました。 また、価値観が大きく転換された戦後直後には、多くの人が人生の根本的立て直しを願い、1946年にライオン歯磨本社で昼休みに聖書を読むサークル活動が行われたのを初め、銀行など全国56カ所の職場で「YMCA聖書輪読運動」が行われました。また、夏の山中湖キャンプには延べ3000名が集うなど、活動は勢いを増していきました。

活動地域を広げて

1950~1963年

1950年には創立70周年を記念し、神田以外の地域のニーズにも応えようと、都内に次々と拠点を開設していきました。1951年には江東ブランチ、1952年に山手ブランチ、1955年に武蔵野ブランチ(現:西東京センター)、1961年には世田谷ブランチを開設。各地域の人たちを新しく会員として迎え、それぞれの地域性を活かしたプログラムが展開されていきました。 また、広島、山梨、札幌、とちぎ、前橋など各地のYMCAにスタッフを派遣し、全国YMCAの発展にも力を注ぎます。また、全国各地の高校に「ハイスクールYMCA」が作られ、高校生が部活動のようにYMCA活動を行なうなど、YMCAは各地に広まっていきました。

参加者層の拡大

1964年~

1960年代になると参加者層はさらに広がり、1966年には幼児体育活動を開始。1965年には「主婦のためのフィットネス・クラス」がスタート。ほかにも「母と子の水泳教室」や「早起き少年サイクリング」など、新しい活動が定着していきました。また障がい者のためのキャンプや余暇活動なども次々と開発されていきます。1958年には第1回「手足の不自由な子どものキャンプ」を、1966年には初の「肢体不自由児蔵王雪上教室」を開催。現在もなお継続して行なわれています。

創立100周年

1980年

1980年の創立100周年記念式典は、諸外国のYMCA代表を迎えて盛大に開催されました。また同年には、日本で最初の全日制体育系専門学校として「東京YMCA社会体育専門学校(現:東京YMCA社会体育・保育専門学校)」を開校。スポーツインストラクターなど社会体育領域の指導者を養成し、他のスポーツクラブにも多数の人材を輩出していきました。

第三代神田会館の建築

1991年
第三代神田会館

1979年にニューヨークYMCAとのパートナーシップを締結したほか、1980年代以降にはベトナムワークキャンプを行なうなど、国際交流活動が活発になっていきます。1991年に竣工した神田の3代目会館は、「国際奉仕センター」と呼ばれ、バングラデシュ、ソウル、北京、ハワイなど、海外のYMCAとの青少年交流活動や、国際協力プログラム、国際理解講座などが次々とスタートしました。 1996年には国立市に国際福祉専門学校(現:東京YMCA医療福祉専門学校)を開校し、介護福祉士と作業療法士の養成を始めました。

保育事業の展開と行政協働

1998年~
  • 保育事業の展開・・東京YMCAは戦後まもない1951年、『江東YMCA育心保育園』(1981年に学校法人東京YMCA学院江東YMCA幼稚園として認可)を開設して以来、幼児教育に携わってきましたが、保育所の不足する時代の中、1998年に世田谷区にチャイルドケアセンターを開設。現在では保育園、こども園、幼稚園、児童館、学童保育クラブを都内で11カ所展開し、広く子育て支援に携わっています。
  • 2003年・・財政再建のため神田会館を売却。本部機能を江東区東陽に移しました。また同年に会員制度をあらため、会員と職員が協力して社会に必要とされる働きを推進しています。
  • 行政協働・・2007年には港区の「指定管理者」として、「港区立芝浦アイランド児童・高齢者交流プラザ」の運営を開始。2008年には「江東区東雲児童館」の運営を始めたほか、2011年からは「江東区児童高齢者総合施設(グランチャ東雲)」の運営も担っています。YMCAのノウハウを活かし、高齢者の健康・教養活動や子育て支援プログラムなどを行ない、広く地域社会に寄与しています。
  • 2011年・・公益法人制度改革により認定を受けて「公益財団法人東京YMCA」になりました。さらなる公益的な活動の展開が期待されています。
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