私たち東京YMCAは、「青年」という言葉を生み出し、「たくましい子どもたち、家族の強い絆、支え合う地域社会」を築くための運動を展開する公益団体です。

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会員が語る「私とYMCA」

2022年4月掲載

YMCA史を語り継ぐ 95歳ボランティア

YMCA史学会理事長 / 東京YMCA元副総主事
 齊藤實さん
YMCA主事OB


●YMCAとの出会い


1946年(昭和21年)9月26日、毎日新聞朝刊に掲載された「YMCA会員募集」の広告(写真)を見て、その日の学校帰りに東京YMCAを訪ねて入会した。当時19歳。以来75年余。今年創立142年を迎えた東京YMCAの歴史の半分を、YMCAと共に生きてきた。

1927年東京生まれ。早稲田実業学校に入学したが、戦時下の措置のため1943年12月、16歳で繰り上げ卒業し、翌1944年4月、清水市に開校された清水高等商船学校(現東京海洋大学)に入学。

船長などを養成するこの学校で海軍予備生徒となるが、敗戦により中退した。
学校が解散されて東京に帰る日、教官から「齊藤生徒!これからは、自分にしっかり向き合って生きなさい」と教えられたが、それまでの軍国主義に変わるものはすぐには見つからなかった。「被占領国」というみじめな国になった中、何を中心にしたらいいのかと思いながら、池袋の闇市で売られていた聖書を手に取った。神田の路上で路傍伝道を聞き、「キリスト兄弟団神田教会」に通い、1946年12月1日に受洗した。YMCAの会員になったのはそんな時だった。



●キャンプとの出会い


三和子夫人と

新しい交友範囲を広げたいと思っていた青年にとって、YMCA入会はまたとない好機だった。入会後はほとんど毎晩YMCAに通い、封筒のあて名書きなども手伝った。一年後にはYMCA内に、20代のクリスチャン会員によるグループ「ヨハネ会」を設立するなど熱心に活動した。
そして1947年夏、初めて東京YMCA山中湖センターでのキャンプに参加した。戦争中、隊列を組んで軍歌輪唱をしていた青年にとって、小鳥の声を聞きながらキャンプソングを歌う生活は、「ここは天国か、と背筋に電気が走った」というほどの驚きに満ちた体験だった。紅色の富士山を映す湖。清々しい大気と光。朝夕の礼拝。グループワークの理論に基づくキャンパー同士の交流。それは単なるレジャーとは次元の異なる「自己変革の契機」であり、新たな生き方へと向かわせた「聖地」だった。
その頃は、電機工専(現東京電機大学)の電気通信科に在学しながら東京都交通局に勤務していたが、山中キャンプの感激は去りがたく「電報で欠勤届を出し、一週間も居座った」。
翌年1948年9月1日、東京都職員を退職して東京YMCAの職員となる。当時、YMCA主事となることは「献身」、つまり神に身を捧げることと同じ意味を持っており、家族は大反対だったが決意がゆらぐことはなかった。夫人の三和子さんともYMCAで出会った。三和子夫人は「YMCAの主事の妻となる」ことを自分の召命ととらえ、齊藤さんを生涯支え続けた。



●YMCA主事として

観音崎海浜キャンプ 初代の駐在スタッフ。
左から3番目が齊藤さん

職員として最初の勤務は、ホテル学校だった。その後、江東ブランチ初代主事補として「育心保育園(現江東YMCA幼稚園)」開設を担当。1953年には「観音崎海浜キャンプ」開設。1954年~61年は少年部主任主事として、1960年の世界YMCA年長少年大会の引率もした。野尻キャンプ管理、青年成人部、総務部、財務部などを経て、1973年副総主事(青少年活動部門担当)に就任。1977年~80年には東京YMCA百年史執筆を担当し、1981年12月末で退任した。在職34年間にわたり、戦後のYMCAを築き、多くの会員を育てた。
 その後は社会福祉法人興望館の館長となり、保育園、幼稚園、養護施設など大勢の子どもと関わる。保育士が働きやすいよう就業規則を見直すなど力を尽くし、1992年、65歳で定年退職した。



●「ヒストリアン」として

1980年に執筆した東京YMCA百年史『東京キリスト教青年会百年史』は、約600ページに及ぶ大作である。関連団体の文献や古地図など膨大な資料調査に基づいて、2年の歳月をかけて書かれたものである。中でも明治時代、旧幕臣だった若者たちによって創立された東京YMCAの草創期の記録は、一人ひとりの人物像を時代背景とともに緻密によみがえらせ、それだけでドラマが作れるほどである。
その後83歳の時に、続編となる『東京YMCA130年の歩み』を執筆したほか、『学校法人東京電機大学100年史』『賛育会の百年』などを次々と手がけた。これだけの年史を執筆した人も珍しい。まさに「ヒストリアン」である。



●資料室ボランティアとして ~史学会の創設、後輩の育成~

定年後の1994年からは、週に2~3日、東京YMCA資料室で史資料整理のボランティアを続ける。資料室には、退職した主事宅や移転した事務所などから、書籍や手紙、記録文書、写真アルバムなど、雑多な書類が寄せられる。その山を一つずつ読み解き、「史資料」として解説を加え、整理し、保管していく。気の遠くなるような地道な作業を、95歳を迎えた今も欠かさずに続けている。
整理には「角2型 封筒ファイル」を用いる。山根一眞考案の「袋ファイル」である。資料室には、1万個を超す「袋ファイル」が整然と並ぶ。 時おりTVや雑誌、大学の研究者等から寄せられる史資料への問合せにも対応するほか、機関紙「東京YMCA」にコラム「資料室の窓から」を隔月で連載。88歳の時にはこれをまとめて『東京YMCA<資料室の窓から>八十八話』を発行した。
1996年には「日本YMCA史研究会(現「YMCA史学会」)を設立。理事長を務める。現在会員数100人。年に4回、持ち回りで研究発表を行ない、会報にまとめて発行している。職員研修の講師も多数務める。



●史資料への思い

「どんな事業も記録を残さなければ、50年後には跡形もなく忘れ去られる」。そんな危機感がある。戦時中、キャンプを「錬成会」と呼んで忍んだ記録。後に売却された施設の建築計画書など、自分が今、解説を加えて「資料」としなければ価値を知られぬまま葬られるだろう書類の山を、寸暇を惜しんで整理する理由である。特に戦時中の資料整理には力が入る。敗戦前と現代を比べ、「いささかも変わらぬ日本人の性向が、あの狂った政治を再現させかねない」と警鐘を鳴らす。
そして何よりクリスチャンとしての使命感がある。YMCAの事業活動は、キリスト教の理念を社会で実践し、具現化しようと行っているものである。単なる奉仕団体ではない。だから「YMCAの歴史の中にはキリスト教が息づいている」。YMCA史を語ることは「福音の証し」にほかならない。『130年の歩み』の「あとがき」には下記のように書かれている。
「東京YMCAが『東京キリスト教青年会』であることを忘れてはいけない。キリスト教は、この国ではマイノリティで、国土と人々の宗教感覚とは異質である。であるからこそ、激動の幕政下に生まれて初代のキリスト者となった青年たちが福音を証するために「青年会」に結集したことを忘れてはいけない。その決意が今も基盤にあるからこそ、東京YMCAの今日の働きが継承にふさわしく祝福される」。
  齊藤さんの歴史書が、「単なる過去からの学びではない。背筋を正して未来へと向かうエネルギーだ」と評される所以である。

東京YMCA資料室にて。背広の胸にハンカチを入れ、洒落たステッキを持って矍鑠(かくしゃく)と資料室にいらっしゃる

** <後記> **

私は1994年から3年間、資料室の担当スタッフとして毎週、齊藤さんと一緒に資料整理の作業をさせていただいた。「これは満州に宛てて書いた手紙」「これは北米主事の送別会の写真」など、一つ一つの資料を掘り起こし、その意義やエピソードを教えていただきながら作業した時間は、貴重な学びの時間だった。
齊藤さんは、その著書に表れているとおり格調高い方である。けれども日常の会話からうかがえる齊藤さんは気さくで明るい。YMCAの「少年部主事」として多くの青少年を育ててきた方らしく、いつも配慮とユーモアを欠かさない。遅々として進まない資料整理の合間に、料理に失敗した話や化粧品にこだわってみた話など、たくさんの雑談で場を和ませてくださったことには幾度となく救われた。「馬鹿げたことを楽しむのも大事なのよ」。大人のゆとりと知恵がある。
YMCAの掲げる「精神・知性・身体」と「社交性」のバランスのとれた生き方とはこんな方を言うのだろう。こんな心豊かな生き方ができるなら、YMCAの会員として後に続きたい。そう思った後輩は数知れない。

(広報室・高田)

 


<著書>

『東京キリスト教青年会百年史』1980年
『創立100周年記念東京YMCA年表』1980年
『キャンプの基礎』(共著)1986年
『賛育会を育てた人びと』1988年
『賛育会の七十五年』1994年
『野外活動教育の理論と実際』(共著)1996年
『日本ワイズメンズクラブ運動70年史出版記念年表』1997年
『新編日本YMCA史』(年表執筆)2003年
『学校法人東京電機大学100年史』正史編(共著)2008年
『東京YMCA130年の歩み』2010年
『東京YMCA<資料室の窓から>八十八話』2015年
『賛育会の百年』2018年