私たち東京YMCAは、「青年」という言葉を生み出し、「たくましい子どもたち、家族の強い絆、支え合う地域社会」を築くための運動を展開する公益団体です。

  1. ホーム
  2. YMCAとは
  3. 会員が語る「私とYMCA」
  4. 東京YMCA保育アドバイザー/東京家政大学元教授 新澤誠治さん

会員が語る「私とYMCA」

「YMCAは心のふるさと」

東京YMCA保育アドバイザー/東京家政大学元教授
新澤誠治さん
保育アドバイザー
新澤誠治さん


他にも「子育て支援 はじめの一歩」(小学館)、「障害児保育の現場から」(フレーベル館)など著書多数

実家は、揚げせんべいを製造販売していた「新澤製菓」。長男として会社を継ぐため20歳から小売店の責任者をし、夜間は大学で経営学などを勉強していたのですが、「もっと広い世界に出て、たくさんの人に出会ってみたい」と思い、あるとき神田の東京YMCA会館を訪れます。

玄関で「貧しい子どもたちをキャンプに!」というポスターに惹かれ、ボランティアグループ「愛隣の集い」のドアをたたきました。まさに、人生の扉が開いた瞬間でした。そこには野村貞子さん(のちの大石敬三牧師夫人)ほか20人ほどの会員がいて、とても温かく迎え入れてくれました。上下関係もなく皆がニックネームで呼び合っていて、一緒に讃美歌を歌い、聖書を読み、社会問題や奉仕活動について話し合う、まったく経験したことのない世界でした。


1955年(昭和30年)、「高橋(たかばし)ドヤ街」と呼ばれていた江東区の貧困地域の子どもたちのキャンプに参加。YMCAのキャンプはとても楽しく、その後も毎週土曜日に高橋を訪問し、子どもたちに紙芝居を読んだり、学習会を開きます。当時の高橋はまだ戦災の爪痕が残り、想像を絶する貧しさでした。3畳ほどの家に家族5人で住み、子どもは学校も行かずに子守をしたり、物売りをさせられたり――。学習会でも落ち着いて勉強できずに暴れる子もいて、「週に1回の学習会でいいのだろうか。自己満足に過ぎないのではないか」と迷いました。

そんな折、高橋の「神愛保育園」で園長が辞め、園長代理が募集されます。「用務員でもいいから採用してほしい」と、創立者であり理事長でもあった賀川豊彦先生に直接願い出て、園長代理に就任。親は猛反対し、勘当を言い渡されましたが、住み込みで働き始めました。


ドヤには、世間知らずの若者を快く受け入れてくれない方もいて、身の危険を感じることもしばしばでした。お金や食べ物を無心に訪れる人や、「家は南京虫で眠れないから」と泊りに来る子どもたち。保育料の滞納も多く、世間の2分の1ほどだった給料すら払えないこともありましたが、愛隣の仲間が後援会を組織してくれたり、時折白いご飯を炊いてねぎらってくれたりと、大勢の人に支えられました。


園長として40年。無認可だった保育園を認可保育園にし、0歳児保育や障がい児保育、延長保育、子育て相談などを全国に先駆けて次々と取り組みましたが、私自身は体も弱く、行動力や才能があったわけでもありません。ただ苦境に生きる子どもたちや親と出会い、痛みを共有して一緒に生きていこうという心意気だけで、あとはいつも周りの人に助けられてやってきました。


全国私立保育園連盟など保育界での役職も務め、各地で講演をするなど、本当にたくさんの人と出会う機会に恵まれました。いくつかの大学にも講演に行きドヤの惨状を話したところ、100人くらいの学生たちが法律相談や栄養相談などのフィールドワークに来てくれた時期もありました。
1993年に定年退職した後は、江東区の「東陽子ども家庭支援センター」の所長に。また東京家政大学の教授として4年間、教鞭もとりました。今は東京YMCAほか行政やNPOで保育アドバイザーを務めています。 実妹の新澤菊枝も江東区の保育園で永く園長を務め、現在は「子育てひろば推進センター みずべの会」で共に子育て支援をしています。


YMCAには、人格の基礎を形作っていただいたと思い、感謝しています。YMCAでキリスト教に出会い、奉仕の精神に触れ、人と交わり、一緒に手を携えて働くことを学びました。YMCAはいつも社会活動の中心にあって、理想を追求する雰囲気がありました。今でも当時の讃美歌を歌うと涙が出ます。
YMCAは私にとって"心のふるさと"です。



「東京YMCA」2017年1/2月号掲載


※息子の新沢としひこさんは、「世界中のこどもたちが」「にじ」「さよならぼくたちのようちえん」など数々のヒット曲を生み出したシンガーソングライター。