私たち東京YMCAは、「青年」という言葉を生み出し、「たくましい子どもたち、家族の強い絆、支え合う地域社会」を築くための運動を展開する公益団体です。

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会員が語る「私とYMCA」

YMCAで人生を再スタート

東京YMCA理事/株式会社JACOM会長/学生寮「東京YMCA山手学舎」OB
 若槻 史郎さん
東京YMCA理事/山手学舎OB

【たった1枚のポスターから】

今思えば、YMCAとの出会いは奇跡のようなものでした。
出身は島根県。高校時代は少々荒れていたので、大学に行ったら生き方を変えたいと思って上京したのですが、第一志望の大学でなかったし授業も面白くなくて、入学後も悶々としていたんですね。
そんなとき、講堂の扉に「キリスト教の学生寮~舎生募集」と手書きで書かれた東京YMCA山手学舎のポスターを見つけたんです。
私はキリスト教とは全く関係がなかったので、その時なぜ興味をもったのか自分でも分からなかったのですが、すぐに電話しました。

電話口で舎監さんに、「クリスチャンもしくは教会やYMCAから推薦された学生が対象です」と言われたにもかかわらず、私は「話だけでもしたい」とお願いして、今までの自分の生活のことやチャレンジしたいと思っていることなどを一生懸命に話したんです。偶然にも欠員が出た時期でもあり、入舎できました。1963年のことです。



【山手学舎での生活】

当時の学舎は、朝夕に礼拝があったほか聖書研究会があり、また教会に通うこと、どこかのYMCAに所属することなどが条件になっていて、私には訳のわからないことだらけでした。でも上級生に面倒みてもらいながら早稲田教会に通い、価値観も人生観もまったく違う世界に次第にひかれて行ったのです。 またその頃は、ベトナム戦争や沖縄問題で学生運動が盛んだった時期で、熱心な寮生もいて、社会のこと、信仰のことなど、毎晩のように議論しました。熱い時代でした。

何より学舎がすごいと思ったのは、いろいろな大学の学生たちが共同生活する、ということです。大学も、出身地も、家庭事情も、カルチャーもまったく異なる人が、同じ釜の飯を食って生活するダイナミズムはすごいものがありました。 異なる人間が一緒に生活していると、大学や出身などの違いを全部払しょくした、赤裸々な人間がみえてくるんですね。いくら立派な意見を言って有名大学に通う人でも、人間にはどこかに欠損した部分や弱い部分がある。そんな裸の人間が見えてきたことで、学歴コンプレックスもなくなりました。人間を知ること、自分を知ることが基本なんだと。そういう、人を見る目やコミュニケーションの仕方など、生き方の基礎みたいなものが、学舎で培われたと思います。

ちなみに私は大学2年生の時に、1年先輩で後にYMCA主事になった本行輝雄さんと一緒に受洗しました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」(聖書「マルコによる福音書」12章30~31節)。この聖句が、その後の人生の柱になったように思います。



学生時代から通い続けている「日本基督教団 早稲田教会」の修養会で。
1970年頃撮影。左から2番目が若槻さん。

【社会人になって】

私はけっこう挫折が多くて、大学受験でも就職試験でも失敗したんです。新聞記者になりたくて就職浪人までしたのですが、ダメでした。しかも留年したことで多額の借金ができてしまったので、レジスターを売るコミッションセールス、いわゆる飛び込み営業もしました。その後、縁あって広告制作会社に採用され、コピーライターの仕事をしましたが、労働組合を作ったことから居づらくなって退職。それからはクリエーターとして3回転職し、29歳でフリーに。30歳の時、賛同支援してくれる方が現れたことから仲間と一緒に自らの会社を創りました。

さらにその方の勧めで私は1か月間、欧米に旅し、広告代理店などを訪問して新しいマーケティングの世界を感じることができました。すごく触発されましたね。日本よりも自由でオープンな仕事をする会社がいっぱいあった。イギリスでは、「大手広告代理店のメディア支配に挑戦する」というアイルランド出身の会社と出会って意気投合して、その会社のロゴマークを使わせてもらうことになりました。日本でいう三つ葉、アイルランドの国花でもあるシャムロックのマークです。
http://www.jacom-inc.com/

もう一つ、会社を作る時に私は早稲田教会の上林順一郎牧師に相談し、「人間賛歌――人間(ひと)に出会い 人間(ひと)と感動」という企業理念を作りました。人間を大切にするという基本的な考え方で経営を貫こうと思ったんです。もちろんその後、会社がつぶれそうな出来事は何度もありましたが、バブルが崩壊しても生き残れたのは、この理念があったからだと思っています。

うちの会社は、広告戦略や商品販売戦略を立案するプランナーとクリエーター中心の会社で、特徴的なのはパソコンのマーケティングでした。まだパソコンが何かも知られていなかった時代に、どこでどうやって販売するか、どんなセールスシステムを構築するか。どんな広告を打つか。そういう基本戦略をトップメーカーと一緒に築き上げていったのです。その仕事が認められて、後には自動車や住宅、家電メーカーや行政など、さまざまな業界のお仕事をさせてもらいました。本当にいい仲間に恵まれて、幸せな時代を生きてきたと思います。



【東日本大震災を機に】

けれども2011年3月11日の東日本大震災を境に、会社は若い人たちに任せることにしました。特に原発事故に衝撃を受けて、仕事を続ける気持ちを持ちえないような心境になったんです。 私は大学3年のとき、新潟地震のボランティアとして自衛隊と一緒に行って作業したことがありました。すごく辛かったけれどもたくさんの学びを得たことを思い出し、それで3.11の時、山手学舎の学生に被災地に行ってもらおうと思い、10年間のスタート基金を寄付しました。舎生たちは石巻の子どもたちの学習支援や漁業の手伝いなど、たくさんの体験をしてくれています。



【これからのYMCAへ一言】

YMCAは昨年ロゴマークを変え、新しいスローガン「みつかる つながる よくなっていく」をうたってブランディングに取り組んでいますね。私自身いろんな会社の広報戦略を立案してきた経験上、YMCAには今後、組織のイメージを決定づけるような新規事業の開拓が必要だと思っています。時代のニーズが変わる中、10年後にどんな組織になりたいか、どんな事業が必要とされるかなどを、会員も一緒に議論して皆で新しいプロジェクトを作っていく。YMCA自身が「みつけて、つなげて」いく中でこそ、YMCAのブランドが磨かれていくと考えています。

今の学生さんたちはバイトや就活で忙しくて、なんで自分は生きてるのかなんてことは考えないようですが、僕はやっぱり基本は人間力だと思っています。YMCAにはぜひ、マンモス大学の授業ではできないような人間形成を支援する団体として、これからも活動してほしいと願っています。